公平に決めることの大切さ【1日1品】
マヤ・リンは中国系のアメリカ人です。
父親は陶芸家、母親は詩人、ついでに叔母は中国で最初の女性建築家と言われる林徽因です。
この両親は、毛沢東の実験掌握と時をおなじくして中華を離れ、アメリカのオハイオ州で暮らしはじめます。
芸術家が生きにく世の中が出来ていくことを、理解していたんだと思います。
マヤ・リンは1959年に生まれました。
翌年にケネディーが大統領になり、その2年10か月後に暗殺され、ベトナム戦争は泥沼化の一途をたどり、若者が独特の文化をつくっていく時代でした。
利発な少女はすくすくと育ち、両親と同じく芸術の勉強をするための大学へ進みます。
1980年、マヤ・リンが21歳の年に、「ベトナム戦争戦没者慰霊碑」の建設プランがはじまります。
デザインは一般公募で募集されることとなりました。
美大に通っていた若きマヤ・リンも、試しに応募し、当選します。
これは、まごうことなき国家事業です。
無名の美大生、しかも、ベトナム戦争では敵側であった中国系の女の子が選ばれるなど、誰も予想していませんでした。
高さ3メートル、全長75メートルの黒い花崗岩に、58,249名の名前が刻み込まれています。
あまりにもシンプルなために、また、デザインを行ったのが彼女であったために、当初は反対運動までおこりました。
ふつう、こういった事業は、有名で権力に近いところにいるおっさんデザイナーに任せられる仕事です。
そして、世界中のどこにでもある、兵士が旗を持って戦っているようなブロンズの像と、大きな石に偉そうな言葉が書かれたものができあがるのです。
なのに、この時は、彼女のデザインが選ばれました。
のちに彼女はこう言っています。
「もし、デザインの公募がブラインドで行われていなかったら、私は選ばれることなんてなかった」
確かにそうだと思います。
アメリカは、重要な国家事業であったとしても、デザインを一般公募し、審査を公平にやると言ったら、最後までそうします。
暗黙の了解や、最低限の節度なんて、どこにもありません。
公平に決められたことは、どんなに反対運動が起きようとも実行されます。
だからこそ、本当の意味で「いいもの」が選ばれるのです。
この記念碑は、デザイン性から背景のストーリーまでふくめて、すさまじい作品です。
当初あった反対の声も今となってはどこにもなく、ここでは毎日、多くの人が犠牲者を振り返り、また、多くの犠牲を出した戦争を反省するために足を運んでいます。